命の尊さ
臓器移植法改正。現在国会で審議中の法案。
日本では15歳未満の子供からの臓器提供は禁止されている為それを改正しようとするものだ。
賛否が非常に分かれる法案だ。私自身も立場によって賛否が分かれる状態だ。
そもそも論で言えば、生まれながらにして持っている天命を人為的に延ばす事の問題がある。
もちろん簡易的に治療できる病気は別。風邪だってほっとけば重篤化し、死に至る事もあるが病院に行って治癒出来る事が殆どだ。それをあえて「天命だから」とは言わない。
そうなるとどこまでが簡易的と言えるのかだが、それは人それぞれになってしまうのかと思う。
要するに結局はお金であり、いくらまで「自分の資力で」治療費を出せるかだ。
お金のある人は我が子の臓器移植の為に海外で数億円掛かる手術を受ける事が出来る。
無い人は出来ない。出来ないと募金に頼るしかない。
そこで今度は募金活動と言う「行動」を起こす事が出来る親と出来ない(やらない)親が居る。
募金活動と言う行動を起こさなければ我が子は死ぬ。
募金活動をしたとしても数億円のお金を集める事が出来る可能性は未知数だ。また支援者が居なければ相当厳しい募金活動となり得る。
私も数年前、少しの寄付した事がある。後にその両親はNHK(当時様々な問題で話題になっていた)に勤務している事が発覚し、ネット上に両親の自宅の登記簿謄本が流れるなど散々だったらしい。
募金を募る前に先ず自分の身銭から出せと言う世論が意外にも多かったのだ(当然といえば当然)。
例えば、このケースなら「臓器移植に1億円掛かりますが現在3千万円は何とか用意できます。残りの7千万円の募金にご協力下さい。」
と、なれば良かったのだが「臓器移植に1億円掛かりますので1億円の募金をお願いします」では、募金者が納得しないのも当然だ。
数億円と言うお金を使い手術が成功したにせよ失敗したにせよ私はいつも後味が良くない。
人の命の尊さは計り知れない。増してや子供の命となればその尊さは一層計り知れないものになる。
一人の命の尊さと複数の命の尊さも同じかもしれない。
でも、その数億円と言う募金で集めたお金があれば一人の命は犠牲になるが複数の命を救う事が出来たといつも思う。
(※世界の子供達まで話が言及すると取り留めない話しになるのでここでは日本の子供たち)
例えば医療機器や薬、満足な治療を受ける事が出来ず亡くなる子供たちが沢山いる筈だ。
数億円というお金で医療機器が買えればこの先ずっとその医療機器は多くの子供達を救ってくれるかもしれない。
数億円というお金で薬を買ったのならばまた多くの子供達を救えたかもしれない。
数億円というお金があれば簡単な手術すら受ける事が出来ず亡くなる子供達を救えたかもしれない。
当事者の親となれば他人の子より我が子は当然の考えであり私も(2児の父)募金活動をするかもしれない。
立場によっては矛盾してしまうのが正に「答え」なのだろう。
生涯平凡に暮らす事が出来るのであれば「沢山の子供達を救いたい」と思い、我が子の命が掛かれば我が子の為が親の考えではなかろうか。
行動を起こした親だけが我が子を救える機会を与えられる過酷な宿命、そして、その募金によって集められた数億円と言うお金は我が子一人の命と引き換えに沢山の子供を救う事が出来ると言うジレンマ。
世の中には答えが無い事が多過ぎるように様に思える。
普通である事こそ幸せであり、そこら中にあるのもまた幸せなんだとつくづく思う。